異邦人と鳥

とある国で、彷徨いながらもていねいに生きたいと願う異邦人とイン子たちのくらしと回想録

チャーリーがいなくなってから 〜 あれから1ヶ月〜

チャーリーがいなくなってから1ヶ月が経つ。

 

2日前ほどから日常が戻りつつあるようで

ビーフシチューが食べたい「かもしれない」と

何か食べ「たい」という欲が出てきてビーフシチューもどきをつくった

 

仕事をしている方が気がまぎれるのだが

フリーランスになってから初めてというくらいの閑散期

お仕事しませんか、登録しませんかという依頼はあるのに

なぜか実際のお仕事がこない

だから、確定申告の準備や

普段できない事務作業をえっちらおっちらとやっている

一抹の不安と戦いながら

 

なんとなくだけれど、もしもチャーリーがいなくなったことに意味があるとするならば、チャーリーがいなくなってからというもの仕事の閑散期が続いていて、

だから、「ゆっくりして」な気がする。

 

チャーリーがいなくなったことで、

放鳥中はバルコニーへのドアは開けなくなったし

そして、セキセイ軍団がケージに入るまで

何か別のことをするようにした。

例えば洗い物とか。

 

そうすると、うちがどんどん片付いて

頭が整理されていく

 

チャーリーがいた頃にも、あと少しだったこのささやかな目標

家(=頭)を整理する

が達成されていく

すこしずつ、ゆっくりと

閑散期(自分的に)なので、できることをほんの少しだけする毎日

 

少ししかしていないのに、成果が見える

 

今日、1ヶ月前に掲載した迷子鳥の広告を再更新した

 

やっぱり、アニマルコミュニケーターのヒラリーがいうように

もういないのだろうか

 

いや、私の頭のなかではなんだかもういない気がする

アニマルコミュニケーターの人が言ったこともあるけれど

逃がしてしまった当日か翌日にだれかに救出されていれば

生きている可能性も帰ってくる可能性もたかい

 

当日と翌日は、天候にはめぐまれていた。

だから、確かに救出されている可能性はある。

 

でも、この寒さを考えるたび、自分が思い知るたび

この寒い時期に無駄に外に出ている人はほとんどいないだろうし

誰かに救出されていたらもうそれは奇跡にちかい

 

チャーリーはものすごく手乗りだったけれど

わたし以外の人間に触れる機会がすくなかったから

 

だから

たぶん、もう、この世にはいない気がする

 

大事にしていたからといって失わないわけではない

大事にする=維持できる

は相関関係はあると思うが、因果関係ではない

 

自分がドアを開けてしまったせいでチャーリーの命がなくなってしまったのに

ある意味いいわけのようなセオリーを語るのには抵抗があるけれど

やっぱり

それでも

大事にする=維持できるは完璧ではないと思う

 

そして、そのことに気づかせてくれたチャーリーのことは一生忘れないし、

今すでにすこしずつ現実と日常生活にあらわれている自分の変化からも

強くそう思う

 

だからといって、もう会うすべがないというのは

解せない