異邦人と鳥

とある国で、彷徨いながらもていねいに生きたいと願う異邦人とイン子たちのくらしと回想録

チャーリーがいなくなってから 〜 Day 11 〜

今朝はじめて、起床直後にチャーリーの不在を思い出さなかった

夢か、もしくは一瞬目が覚めたときに見たスマホの通知か何かの事を思い出した

その直後、チャーリーの不在を思った

 

今日ですでに11日目である。

そして、今日の13時40分ごろに

チャーリーが飛び立ってから240時間が経過したことになる。

 

泣くことには疲れた。

泣くことはストレスを解放するし

不在の存在を感じることもできる

 

泣くことに疲れた今は

不在そのものを感じ、認めていく過程に入っていくのかもしれない

 

朝のコーヒーを淹れている時

ふと布巾を投げつけた

キューブラーロスの喪失体験後の段階では

怒りを感じるという記載があるが

これまでは怒りは感じたことがなかった

布巾を投げつけた時の感情は怒りだったと思う

誰に対するでもない怒り

行き場はもちろんないので

やはり感情は感じ切ることが一般的に(心理の世界では)推奨されているように

怒りがまた顔を出した時には感じ切ろうと思う

 

朝の仕事を軽く済ませ、セキセイちゃんたちのご飯を用意する。

今日のメニューは、芽出しシード、ペレット、そして手作りエッグフードと豆腐のミックスとレタス。 ラフィーバーのおやつポップコーンとアヴィケーキも添えた。

エッグフードは、特に産後のデイジーのカルシウム補給には大切だ。

そして、セキセイちゃんたちは結構グルメで数日同じものだと飽きて食べなくなるので、エッグフードには大好物の豆腐を混ぜた。タイムも散らした。

エッグフードにはミツバチの花粉も入れてある。滋養強壮だ。

精巣腫瘍のマエストロにもいい。

もちろん、他の鳥ちゃんたちにも。

 

ふと、リビングのコーヒーテーブルに横たわっている

赤いものに目がいった。

チャーリーが使う予定だったハーネスだ。

 

ハーネスをつけて、外に散歩に行こうとしていた。

ロストの危険性もあるので、実際にビュンビュン飛ばすかは未定だったけれど、

小さなケージに入れておさんぽに行く時に、

ハーネスも付いていれば余計にロストのリスクヘッジになると思っていたし、

そこまで訓練されていれば、またそれもロストのリスクヘッジにもなると思っていた。

 

ハーネスはまだ羽根の生えきっていないツンツンの

ひなの頃から練習するのが望ましいらしいが、

うちに来た時はすでに2ヶ月経っていたので、

環境になれること、信頼関係を築くことを優先し、

ハーネスの存在に慣らすために目のつくリビングに置いて、

たまにおもちゃとして遊ばせていた。

 

実はこの前、ハーネスだけでなくフライトスーツも購入したばかりだった。

フライトスーツは今も、セキセイちゃんケージにセキセイちゃん用と一緒にかかったまま。これも、その存在に慣れさせることが目的だった。

 

こんなに色々ロストの危険性やらリスクヘッジなど考えていて

最も初歩的なドアを開けるというミスで

チャーリーを逃してしまったのは意味不明だ。

ただ、多くの事故が初歩的なことから発生するので

当然の結果とも言える。

 

それでも一度、夏にうちでパーティをしていたことがある。

その例のドアを開けて、リビングとキッチン、ベランダを開放していた。

酔ったのか何なのかわからないけれど、知り合い(友達の友達)が

セキセイちゃんのケージのドアをそうっと開けた。

そして、全員が一気に飛び出した。

もちろんドアは全開である。

 

しかしわたしのほうが足が速く、ドアを閉めることができた。

しかも危機一髪のタイミングではなくて、ドアに到着して閉めるまでのじかんは

セキセイちゃんのドア上部のいつもの止まり場所に到着よりも

わたしの方が結構速かった。

 

友達がケージを開けたことを未然に防げたように、

事無きを得る行動がとれる事もあるということだ。

そして、多くは、そう言った偶然の連続は

にんげんが完璧にコントロールすることは不可能だと思う。

 

これは、自責の念を慰めたいからそう言っているのではない。

それもどこかであるのかもしれないが、

そういうコントロールできない事柄や出来事、偶然と

それにに対する無力感と畏怖については無視できないのではないかということに

触れておきたかった。

 

しかし、まだいるセキセイちゃんたちと暮らしていく上で、

書くことでしっかりと考えや考察したことを

行動と習慣に落とし込めるようにしたい。

 

セキセイちゃんたちはあまり、いや、ほとんど

ドアに向かっては飛ばない。

ドアからは少し離れた上にあるさんに向かって飛ぶ。

ドアの向こうに外というものがあることを知らない、

いや、知っていても興味はなさそうだ。

 

ただ、チャーリーは違った。

チャーリーはドアの向こうにまだ世界があることを知っていた。

わたしが外に出るからだ。

そして、ドアには窓が付いているタイプで、

そこによく飛んできていた。

 

書いていて、なんと危ないことをと思う。

もちろん、鳥ちゃんたちが周囲にいないことを確認していれば、

ドアを開けても鳥ちゃんたちが周囲におらず、

よくいるケージ周りから飛んできたとしても、

スピード的にはすぐに閉めれば間に合う。

 

わたしもドアを全開にして出入りしていたのではない。

この日は周囲の確認が甘かった。

(ここでは、放鳥中にドアを開けるという行為の安易さと馬鹿さ以外のことを考察している)

そして、チャーリーはわたしがドアが開けた途端、

わたしめがけて飛んできた。

しかも、ここ数ヶ月で、狭い場所を器用に飛び回る(曲がったり)スキルまで身につけていたので、ピンポイントでわたしに着陸した。

 

完全に、オカメインコちゃんの頭脳の良さと学習能力を把握して、

それを行動やケアに落とし込むことができていなかった。

 

もちろん、頭の良さと学習能力を全くわかっていなかったわけではない。

そして、ベタ慣れではないセキセイちゃんたちとはずいぶん違うので、

お世話方法もあそび方も、セキセイちゃんたちとは違うということで勉強をもっとしなければと思っていた。

そのために購入したオーストラリアの鳥専門の医師である

ドクターロスペリーの本はまだ読めずじまいだった。

 

チャーリーの捜索では、本当に一番の優先事項

「だと思えること」を次々とやっていくしかなかった。

すべてを「完璧に」できればそれに越したことはないだろう。

でも、すべてを「完璧に」やっていても、

すべてを「適当に」やっていても、

結果がどうなるかは誰にもわからないし証明のしようもない。

 

今日は、いや、今日もまだとっても疲れている。

明石家さんまの動画を見てぼーっとしている。

そして、思う。

 

チャーリーには本当に戻ってきてほしいし

生きていてほしい

いないことが寂しいしじぶんのしてしまったことが意味不明にうざい

 

でも、ずっと泣いたりすることは無理で

それは、チャーリーがいた時に、

ずっとかまい続けて一緒にいるのが無理だったのと同じだと思った

 

そばにいてもいなくても

生きていても生きていなくても

ずっと同じことや世間で愛情の印だと言われることばかりはできない

実際、愛情の印だと言われることを

勝手にずっとやってしまうことはあるにしても

 

ということはつまり、

チャーリーが生きていなくてもいなくても

そこにいてもいなくても

わたしのチャーリーに対する愛は

同じ量で存在し

実際、量などない状態で

存在するのだと腑に落ちて

安心した

 

でも、誰かチャーリーを保護してくれていますように

そして、戻ってきてほしい